心のブロックと『悲しみ』の理由
心のブロックと『悲しみ』の理由
新年早々、私は威勢よく宣言した。
私は変わります
自己開示します
過去記事 ⇒ このブログの目的
そのために始めたブログ。
本気で、本気で、変わりたいから。
ところが、いざ書き始めようとしたら
やけに筆が重い。
(正確に言うとタイピングの指が重い(-_-;))
自分の今までの人生の棚卸しをしようとしたら、
順番としては子供の頃の事から始めることになる。
当然、家族のことにも触れることになる。
と、ここへ来て(って、まだ始まったばっかりやんか(=o=;))
ハンパない躊躇感。
あまりに指が動かないので、
いっそ、まずは思春期以降から始めて
後から戻ろうかとさえ、思ったくらいだ。
でもそうすると、
それ以降なぜそういう生き方をしているのか、
というルーツの部分が曖昧になってしまう。
それに、これだけ気が重いということは、
やっぱりそこに精神的なブロックがあるんだと思う。
なので、ここで躊躇すると
また変われない自分で終わってしまう。
だから勇気を出そう!
そう決心した。
なぜだか、子供の頃のことを思い出そうとすると、
悲しみの感情に襲われる。
それもかなり激しい悲しみの感情なのだ。
最初はその頃の想いが蘇って悲しいのかと思ったが、
どうも違う気がする。
たぶん、過去の出来事に対して悲しいのではないと思う。
じゃあ、何に対してこれほど悲しいのか。
実はまだ、それがはっきりわからない。
色々なことなら、結婚後の人生にもあった。
決して楽な人生ではないけれど、
かと言って、それを苦労と呼ぶと
バチが当たりそう(表現古っ!?)な気がする。
振り返ってもみても、
色々あったよなぁ~という感慨はあっても、
そこに、自分を動揺させるような感情は伴わない。
『家族』という共同体のためだから
頑張れたという側面もあるけど、
その違いを強いていうならば、
「生きてる実感」があったということだろうか。
だとすれば、
子供時代を思い出すと襲われる悲しみって、
もしかすると
「生きれなかった」悲しみなのかな?
次から、本当の棚卸しを始めよう。
奇しくも最近、仲間内で
「自分史を書く」ということが話題になっている。
「自分史」とは、
今までの自分の過去を年代順に書き出し、
どんな思いで、何を求めて行動してきたのかを
客観的に掘り下げ、
自分の信念、コアを確認するための
ツールなのだそうだ。
是非、自分史にもチャレンジしてみようと思う。
自分の軸を見つけるために。